SOUL REBEL

Posted: 2013/04/23
栃木に引っ越しして早1年。
僕に限ったことではないかもしれませんが、
驚くようなシンクロ体験がたくさんあった1年でした。
その移住の決意をした瞬間からそれは続いていて

心のままに行動すること。

これが全てを引き寄せているのだと思います。

だいぶ昔に書いたかもしれませんが、
一度心に決めたことは、失敗を恐れずやった方がいい。
そこには様々な障害が降り掛かってくるかもしれないし
色々な「やっぱやめた方がいいんじゃない??」
の囁きが聞こえてくるかもしれない。

当たり前のように時計を見ない日は僕らの日常にはなく、
1分1秒を正確にカウントされていく。
果たしてそれは本当の時間だろうか?

この人生を、今いる両親の子として、自分の意思で生まれてきたのならば
目の前に起こる全ての出来事は(仮)未来の自分が
ある気付きを促すために引き起こしているのではないだろうか。
つまり自分たちは、ある目的をもって、今ここにいる。
本当に自分がやりたいこと、魂が望むことは何だろう?
外に答えはない、黙して、内なる自分に問うしかない。

知識や情報に「縛られない」心が感じ求める方向へ。
自分で決めつけた囚われの観念を捨て、本当の自分らしい生き方をしたい。

そんな人が、自分だけでなく、
最近は増えているんじゃないでしょうか。

一本軸の通った自分があれば、どこにいても仲間はすぐに出来ます。
今の自分を、魂を、100倍信じることが出来たら
きっと明日から、全く違う人生を歩むことになるでしょう。
そんなワクワクする心や、挑戦してやろう!って心も
普通の人は年とともに忘れていってしまうんだろな、、
最近はそんな風に思ったりもします。

マイノリティである自分を知り少しショックだった1年前。
排他することでしか、自分を主張できないでいたのかもしれません。
けど、自分を卑下しないで誇ること。日本人としての自分を誇ること。
自分を尊敬し、他人をもっと尊敬する。尊敬は愛に変わる。
それが神の領域なんじゃないかと思っています。
ストリートカルチャーへの畏敬も
世に生きる全ての老若男女への畏敬も差はないのです。

全ては学びのために…
そう思うとアホらしくなるほど辛いことも感謝の気持ちで迎えられる。
現実は明日からいきなり180°変身できるほど甘くはありませんが
魂を、本気でぶつけられることを毎日つづけるべきなんだと思います。



闇の奥には光がある

Posted: 2012/11/07
数年前、精神的にとてもキツい時期がありました。
他人から見れば大したことではないのでしょうが
自分にとっては毎日が五里霧中で、
只々こころを擦り減らす日々で、いつかそれが
りんごの芯みたいになっちゃうんじゃないかと本気で思っていました。
精神科のある診療所の前まで行って、そこに入ったら帰ってこれなくなる、
と思ってとっさに家に引き返したこともありました。
とにかく答えの出ない闇のなかを彷徨っているような感覚の毎日。
それでも周囲のテンションに必至についていこうと無理をしますから
からだにその歪みが返ってきて、やたら風邪をひいたりしていました。

自分がそんなんでも、幸運にも目にかけてくださる方や優しい友人はいて
懸命にアドバイスをくれたり、世話を焼いてくれるのですが
殻に籠ったままのこころでは、それらも焼け石に水のようなものです。
今思うと、何て蕪村な態度で臨んでいたのだろうと
感謝の念と共に申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまいます。

毎夜、真っ暗闇のこころのなかを歩きながら自分の生きてる意味を問う。
何のために生きるのか?答えを見つけたくて必至にもがいていました。
むしろ、それを明快に出すことが出来ないまま生きることは出来ない、
とさえ思い詰めていました。

しかし、この闇は重要な教えでありカルマでもあり、
その先に光がいずれ指すことをこのとき知っていましたから
自身を保つこころだけは折れることは決してありませんでした。


小学生のときテストで96点をとって自慢気に父親に見せたら
「100点でないと意味がない」と言われたそのときから
学校での勉強についてはずっと疑問を抱いてきました。
きっと今だったら「じゃあみんなが100点取ったらどうするの?」
って聞くことでしょう。
本当の勉強はすべてストリートのなかにあったと思っています。
すべては自分をさらけ出したときから始まる、と知りました。
芸術に答えはありません。そのときの自分すべて、
ありのままが作品となり、放たれ、世を泳ぎ渡っていきます。

進学校で廃部寸前、部員3名の美術部に入ったのは高校3年のときでした。
自己分析をすると、感覚優位で生きてきたのだなぁ、と思いますが
人生を照らす明かりのひとつはこの道にある、と
このとき既に確信していたのでしょう。
偏差値社会の闇から抜け出す道はこれしかなかった。(と当時は思った)
これが僕の人生の於いての最初の光だったように思えます。

環境が修繕されたいまだから言えますが
上京してきた頃は家族関係も決して良いとは言えず、
そのフラストレーションのエネルギーをぶつけるかの如く
毎夜のようにダンスフロアーに爆音を投下したり踊ることで自身を保っていました。
NO FUTUREまるだしでDJしていて、暗い、渋い、ドープ…そんな音ばっかで、
その影響は今も否めませんが、、とんだエゴ丸出し野郎でした。
そんな日々は結果10年近く続いたのですが、
横の繋がりで生きるという、社会ビジョンをそのなかに垣間みたことも確かです。
人と繋がれない孤独から来る自殺が社会問題となってきた時期とも被り、
この時期にそういった生き方をしていたことは「教え」以外の何者でもありません。

このように自分の過去を振り返っても、
闇のあとには必ず光がありました。
しかしそれは、か細く、何より自分自身での
「気づき」がない限りキャッチできません。
掴んだら、それを遠心力を利用するように
うまく勢いづけて、太く、大きくしていけばいい。

闇と光は表裏一体。
闇を先入観で恐れることは、何も意味がありません。
大きく深呼吸して、じっくり向き合い、それさえも
楽しみにしてしまいましょう。


最近、僕が発信したいメッセージは何なのか?
と言いますか、言いいたいことは山ほどあるのですが
うまくまとめられず、ずっとこのBLOGは放置していました。

僕という生き方は一つしかないし、それがメディアにさえなる時代。
今日はちょっと重く「闇」の話でしたが、
幸せに楽しく生きるためのコツをこれからは綴っていきたいと思います。
そのためにまず、自分が最高に人生を楽しみ謳歌することですね。

先日出会った言葉で
「笑い」は「和来」であって「和が来る」との意
というものがありました。

この魔法の波動を、言葉に置き換えて伝えるのが目標です。


なぜ今「農」を学ぶのか

Posted: 2012/08/28
なんという気まぐれなブログになったことでしょう。
自嘲してしまうくらいマイペースに「頑張らずに」更新してますが
こんだけ長い間書かなかったことは開設以来ありませんでした。
もうコケが生えかけてますよ〜、と自分に言い聞かせてます。
その間、チェックして批判、期待、はたまた呆れ、
少しでも感情を巡らせ、ここに想いを馳せてくれた方がいたことは
存じております。ありがとうございます。


日々劇的だと「思っていた」東京生活を離れて早半年。
まあ、夢を持っていればどこにいても同じかな、というのが最近の感想です。
今年の春夏、僕は何をやっていたか?といったら「畑」としか言いようがありません。
とにかく本気で、今、このときに「農」を学びたいと思った。
農家になりたい訳ではない。なぜ「今」なのかと言えば
それがこれからの生き方の1つの基軸になると直感しているからです。
塩見直紀氏のことば「半農半X」…
3.11以降この言葉は自分の脳裏から離れないどころか
日々その重みを増していっています。
自由、社会、貨幣、子孫…これからはそれらに対し
明快なビジョンを持つための「戦い」を挑まなくてはいけない。
遅かれ早かれ「今は関係ない」と思っていても必ず個人が
それらに対し答えを出さなくてはならないときが来るはずです。

僕は畑を隣の空き地につくったら、当然日々近辺の方々の目に触れるので
自然とコミュニケーションを取るようになりました。
隣の小学生と播種や草むしり、収穫したりして
「いいな〜、わたしもやりたい!」
と言わしめたので、たった4ヶ月だけど1つ大事なことを伝える事ができ、
白い目で見られながら耕起して僕がうつけになった日々は
ムダではなかったと安堵したのでした。

食物をつくる行程に触れると、嫌が応にも
自然の摂理やセンスオブワンダーを学ばざるを得ません。
ふと立ち返って人間ばかりに囲まれた社会のなかに自分がいるとき、
「不自然」に気付くタイミングが出てきます。
自然から学ぶことは多く、畏敬を抱かざるを得ません。

僕は自身の歴史年表を先日書いてみました。
そのなかに頻出し抽出されるキーワードには
「造形」「音楽」そして「自然」がありました。
東京にいてずっと恋焦がれて居たものは自然であり
それが農と帰結し情熱で僕を動かしているのです。
そして継続してきた美術や音楽に関すること、
これらが僕が一生涯やりたいこと、つまり「X」なんだと
今さらながら確信しました。

正直言ってここ数ヶ月はDJという表現に
興味が薄れていっていたことは否めません。
しかしSOLEA君らとはじめたorbitでの
アンビエントミュージックパーティーでの
肩肘張らないスタンスやオーガニックな表現に
また新たな活路を最近は見いだしてきました。

『「自然」の「造形」で「音楽」を演る』

これがこれから追求すべき自分の音楽スタイルかもしれません。


農を中心に見据えて、ライフスタイルのなかから
天職を追求し発信する、個々が屋号を持って独立し
小さなコミュニティーから社会を変えていく!
というのが最近の理想的ビジョンになってきました。


1st Anniversary Mix

Posted: 2012/07/06

うっかりこちらでアナウンスするのを忘れてしまっていましたが
今月16日までGLOCAL RECORDSで¥5,000以上お買い上げ(店頭&通販OK)
のお客様に風祭氏と自分のミックスをそれぞれプレゼント中です!!
詳しくはこちらを参照ください。

内容は先日お伝えした通りアンビエントですが、
これからの季節にもぴったりの内容だと思います。
是非ゲットしてチェックしてみてください!!


ROOTS RADICAL

Posted: 2012/07/05
先日「デモにはもう行かない」と思い切って言いましたが
それは自身の在り方を問うための言葉で
そこに行っている方々への非難や
原発の良し悪しを意味するものではないので
誤解なきようお願いいたします。

広島で被ばくしながらも医療活動を続けていらっしゃる
肥田舜太郎医師の『ヒロシマから「内部被ばく」と歩んで』を
先日地元の書店で購入して読みました。
氏は戦後、その書のタイトルにあるよう「内部被ばく」の危険性について
訴え続けてきた人物の一人であります。

僕たちはこれから「放射線時代」を確実に生き抜かなくてはなりません。
そのためには放射線についての勉強はもちろんのこと
いかにして今の日本が成り立っていったかというその歴史と
これからの「こうありたい」という社会のビジョンを個々が持たねばなりません。
被ばく国がなぜ核を容認するのか、冷静に考えて老若男女が疑問に思うべきです。

この本には、当時被ばくした多くの人が
それを理由に体調不良を訴えると警察に目をつけられ
自己申告を自重せざるを得ないムードが作られたことや
核分裂反応がそもそも兵器をつくるための技術であり
原子力発電はそこに目をつけ金儲けをしようとし始めたビジネスであることなど
知ってそうで知っていない、今に通じる日本の体質が記されています。

そもそも原爆投下後、反米感情を何よりも恐れたアメリカがやったことは
「情報統制」です。(思えばこのblogの最初期の投稿もこの話題についてでした)

放射線障害は前例のない病状であり、
当然のことながらその情報さえ流さなければ対策も薬も研究されることはないのです。
だから原爆、原発にまつわることは完全犯罪であり得る恐ろしいことなのです。
被ばく対策の情報開示を米国軍事医に求めた肥田医師は
「敗戦国民のお前にそれを知ることは認められない」と言われ、
それを唯一指示できるのは米国大統領(当時はトルーマン)のみだ
とつっぱねられたそうです。

何という、人権も、命の価値もないような話でしょう。

僕は、現代において「反社会的」であることは
もはや逆に「社会的」であるとさえ感じてしまいます。
キツい言い方すれば、テレビの情報のみ鵜呑みにしていることさえ
もはや気づかないくらい麻痺してる脳が作っているのが
現代の社会かもしれません。

盲目に信じてきたことはあまりに大きいのではないか???


こんなこと言うと何も筋が通ってないのだけれども
音楽をやっている人たちは直感力に長けているんです。
感覚で、これがヒューマンネイチャーとして正しい!ってことが
わかっていると思うんです。
言葉にはなかなか出来ないから表現しているのかもしれません。

ここにはそういうことを沢山書いてきたつもりだけど
人を繋ぐ音楽の力には教えられ、何度も助けられているし、
人類の理想的な共生ビジョンがあることも経験的に知ることが出来ました。

だから社会で働くサラリーマンはもう少しそんなミュージシャンの声に
耳を傾けてみて欲しいと思うし、ミュージシャンは精一杯毎日を生きてる
サラリーマンの感覚を知る術を持って欲しいと思うのです。

僕は音楽をやっている人間です!なんてまだ胸はって言えるもんじゃないけど
少なくとも違うフィールドで精一杯やってきた自分の感性を
大多数の社会のなかでクロスオーバーさせたいと願って帰郷した点もあるんです。

やはりそこを度外視していては始まらない、
エネルギーのある音楽仲間たちやシーンだけど
そこにいるだけじゃ始まらないと思って飛び出してみたかったんです。

伝えるチャンスも場所も毎日横にあって
自分自身の行動全てが「デモ」になるのです。
だから官邸前には行こうとは思わないのです。
来週も集ってます!って言われても…正直ピンと来ない。
24時間、五感フル稼働で伝えたらどんだけ変わるか試してみたい。

あまりに色んな価値観があるカオスだけど
根本の根本に立ち返っていこう!
温故知新の先端を行こうぜ!
って言うのが僕のメッセージです。



SUNDAY PEOPLE

Posted: 2012/07/03

今度の日曜は西麻布新世界にて一年半ぶりの「SUNDAY PEOPLE」開催です!
カラダの毒が抜けココロ洗われるような太田 暁さんのライヴは必見ですよ。
今回はセネガル出身 The Tchiky'sでも大活躍のパーカッショニスト、
ラティール氏も参加決定!DJはいつものジン&トメで盛り上げま〜す

日曜19時オープン。お待ちしております!!



デモにはもう行かない

Posted: 2012/06/26
先日の大飯原発再稼働に反対する首相官邸前のデモには
4,5000人もの方が集まったそうですね。
今日の新聞で総理は「デモの声はよく届いている」と発言したとありましたが、
言葉とは裏腹な行動は繊細になっている彼らの感情を逆撫でするだけのものでしょう。

僕個人もアタマに来ていないといったらウソになりますが
それ以上に、システムに対して中指を立て続けることの意味を問いたいです。

怒りの矛先をデモにぶつけた先には何があるでしょうか。

報道された人数が違っているとかは五十歩百歩の問題で
見てる人は当然のように見てるのが今の情報社会であると思います。
現場にいた人間よりもはるかに多いその情報の受け手が、
明日一歩踏み込んで行動するための動機とは何なのか??
怒りをデモにぶつけたい、自分に出来ることを何かしたい!
…その思考回路は間違っているとは思いませんが
一歩引いて冷静に、そこの「他を動かすものは何か」を
今は個々が改めて見つめ直すべきなんじゃないかと思うのです。
そのやり口は、各々の得意分野で表現すれば良くて
その輝きが、他の共感を得る契機になる、ということは
このことに限ったことでなく人間社会や文化の定石でもあると思います。

僕は、自然と共に在る生き方、そこから派生する衣食住にこそ
チャンスがあると思い、3ヶ月前に東京を去りました。
それは当然、東京では出来ないことであったからです。

マイノリティーの中で多くの支持を得る方法と
マジョリティーの中で多くの支持を得る方法は違うということにも気づきました。
要は、どちらに社会を変える可能性があるか、
エネルギーがあるかということなのだと思います。
僕が今まで東京で活動してきたフィールドは前者だと思いますが
そこで得た感性を生かして後者に食い込むやり口を今は模索しています。
そのヒントのひとつは農であるとも思うし、
パーマカルチャーや新しい生活デザインだとも思います。

本気で畑のなかから社会が変わっていくと思っています。
…ちょっと危ない考えと思われるかな?(笑)

みなさんはどう思いますか。


1950年代の核燃料サイクルを国策として進めると決断したときから
そのレールの上を僕らは生きているのです。
途中70年代になって、そのエネルギー政策が
緒外国に対する抑止力になることに気付き国が推進してきた事業でもある、
ということは、今は民放のNHKでさえドキュメントで放送しているのです。
エネルギーシフトを謳う人たちの認識はこの延長線上にあるのだろうか??
「エネルギーが必要」と思い純粋に研究してきた人類の知恵は
今や、空気からさえエネルギーが生み出せることにも気づいています。

では、エネルギーとは何のために必要なものなのでしょうか?
それは当然、「生活」のためですよね。
人間はより良い明日を夢見る生き物なんです。
それが社会、法、文化…全てを作ってきて今があります。
では、最低限明日ぼくが必要なエネルギーは
これだけです、って言える人はどれだけいるだろう。
そこは個人の感覚で0〜無限まで十人十色でしょう。
結局のところ、この共通意識、つまりは
「これだけあればいいよね」という規定が定まらないから
脱原発も進まないのだと思うのです。

バビロンシステムは確実にある。
けど、そこに直接的に中指立て続けるのは本当に疑問なんです。
だからもうどんなに怒り心頭でもデモに行く事はないと思います。
ロックでもパンクでも何でもいいけど、
そのアティティードは常に時代と共に
アップデートされてこそ生きるんじゃないかと思うのです。
静かに、継続的に、他利的に、生きてこそ
自分も社会も変わることができるんじゃないかと思う今日この頃です。

個々が想い、社会に対して行動する、けどその前に
冷静になって考えてみることも今必要なんじゃないでしょうか?




醸せyourself

Posted: 2012/06/08
昨日自分の畑をいじっていてとても重要な発見がありました。

詳しくは「不耕起栽培記」の方に書きましたが、
巷でも発酵食ブームで話題となっている微生物の存在についてです。

カビや麹菌など目に見えるものもありますが、
その多くは人の目では見ることのできない世界で生きています。
見えない世界を信じることは科学の発展と共に生きて来た
我々人類にとって残念ながら容易なことではありません。

その小さな世界から、わたしたちの目に見える大きな世界に至るまで全ては
「相互扶助」が、まさに「自然」に成立していてムダが本当にないんだ、
ということを、自分の畑の横に積み上げられた雑草の根に集まる微生物と
それが住む土を好んで食べるミミズ、その糞土で育つ植物、という流れを
みて悟ったのです。

ここでいうムダとは、一方通行的なエネルギーの流れであり
わたしたちの身近なことだと「消費」に当てはまるとも言えるかもしれません。

根は一方的に養分を吸収するだけのように思われがちですが
じつは自らの力で分泌物を出し、土中の微生物を育てるかわりに
微生物は自らの体に栄養素を結びつけて、それらを根にもたらすのです。

いっぱい光合成をして旺盛に分泌すれば、
そのぶん根を張り巡らして自分も成長することができます。

これは人間個々にも当てはまるのではないでしょうか。
利己的、責任感のない人間が増えてるという話を最近よく聞きますが
「他を助けることで自分が成長できる」ということが自然の摂理であれば
他を顧みない生き方をした先には何が待っているのか想像するのは容易いでしょう。

「畑は大きな味噌樽だと思え」という偉大な先農の言葉がありますが
その小さな根まわりの微生物の世界を広げるところから、
最終的な収穫というゴールに辿り着くことができるわけです。

自らの体のなかを醸(かも)すことによって社会全体が醸されてゆく。
健全な心は健全な体に宿る。
You are What you Eating. 食べ物があなた自身を作っている。

消費について改めて個々がもう一度じっくり考えてみて欲しいと思います。
毎日コンビニ食で化学調味料ジャンキーに知らないうちになってしまっていて
イライラした態度で人とつきあって、ストレス溜めながら仕事して稼いで
気づいたらガンになって莫大な医療費にそれをつぎ込んでたり…
どうかこんな負のループにはハマって欲しくないと切に願います。

見たくれに騙されず、本当に「気」のあるものを見極める勇気と知恵を持つこと。
いまは物事の価値観の過渡期で、最初は変人扱いされるかもしれないけど
理性じゃなくて感性で悟ったことは間違っていないと絶対的に信じること。
醸され研ぎすまされていけば、何が正しく何が間違っているか、
見極めることができると僕は経験的に思っています。

ましてやそれが自分らしさに繫がるし、全快にそれで輝けば
色々繫がって生きる道は「自然」と開けるんじゃないかな、と思うのです。