農に触れる生活を送りながら、ずっと気になっていたことの疑問がやっと解けました。
「テレビや雑誌でなぜ、こんなにも農業や田舎暮らしがピックアップされているのか」
自給率を上げることを目的とした国策ならば、
減反政策を取る意味がわからないし、
農林水産省がウン百万出し雑誌の企画を買収してまで
有名人に田舎の畑体験させていることetc...
ちょっと過激な話になるかもしれませんが
精神科医であり画家でもある吉田脩二著『感じる力』を読んで思った点がいくつかあるので
自分がこの分野にどっぷり首を突っ込む前にここに書き記しておこうと思いました。
そもそも「自然人」とは何なのか?
僕はその答えは、自然を愛すること、すなわち日本人的感性から言えば
美しい田園風景や里山の景色に心癒される経験は多くの人が持っていることでしょう。
そんな景色のなかにいて最近は「農耕文化」の起源について考えていました。
裏の林を抜ければ、そこには写真のような田畑の真ん中に不自然に残された
道祖さんを祀った神社やほこらが至るところに存在しています。
実像を持たない、山や川、それ自体をご神体として崇拝してきたのが日本の神道です。
確かに、その場の燐とした空気や太古の歴史を感じる佇まいは
スピリチュアルな何かを感じずにはいられません。
農耕を生業としてきた先祖たちが、自分や家族の存命を左右する
「自然」に対し畏敬の念を持ち接したことは納得のいく話です。
しかしながら、哲学的な分析になりますが本当の人間の
「あるべき姿」「ありのまま」とは一体何なのでしょうか。
そこを紐解く鍵はこの「農耕文化」以前の「狩猟文化」にあったのです。
日本においては縄文時代までが狩猟時代であったと言われています。
この時代に生きた我々の祖先は、「時間」「富」「序列」といった
現代わたしたちが当たり前すぎて疑いもしない概念自体が存在していませんでした。
農耕民のように過酷な自然状況のなかで「いかに生きるか」よりも
自然と共に「いかにあるか」ということが重要であったのです。
農耕文化は季節や生産性を意識しなくては成り立ちませんので
勤勉実直な性格の人間が良しとされます。
これって、現在の資本主義経済と似てると思いませんか?
戦後の私たちの祖父母は「エコノミック・アニマル」と呼ばれ
その勤勉さに欧米諸国の人たちは驚いたそうです。
その頑張りのお陰で現在の豊かな生活を教授している自分があるのですが
とりわけ日本は四季があり、チームプレーを重視しないことには
農耕社会が成り立たなかったので、こういった勤勉な性質を持つようになったとか。
「現在」「過去」「未来」の概念も然りで、農耕以前には「今」が全てであったのです。
あるがまま生きたいと願う人は年々増えていると思うし
この風潮はヒッピームーブメントのような一過性のものでもない気がします。
日本の農耕文化の起源は2500年前と、実は世界の中では遅いほうで
現在わたしたちの中にある感性は諸外国の人たちとは少しズレているのかもしれません。
正直言ってここ一年くらい頭ひねりながら書こうとしていたことがほぼ書いてあって、
よくよく思い出してみると名字を一緒に追って行ったときにJahtomeは田畑に関わるご先祖様だったねー 何百年も通り越した感じ。
まさにね。自分の生真面目さは農耕民族の証、、か?笑
生真面目て料理あったら美味しそー。この前のこんにゃくつかったりしてあってさっぱりしてて焼酎にあうの。