闇の奥には光がある

Posted: 2012/11/07
数年前、精神的にとてもキツい時期がありました。
他人から見れば大したことではないのでしょうが
自分にとっては毎日が五里霧中で、
只々こころを擦り減らす日々で、いつかそれが
りんごの芯みたいになっちゃうんじゃないかと本気で思っていました。
精神科のある診療所の前まで行って、そこに入ったら帰ってこれなくなる、
と思ってとっさに家に引き返したこともありました。
とにかく答えの出ない闇のなかを彷徨っているような感覚の毎日。
それでも周囲のテンションに必至についていこうと無理をしますから
からだにその歪みが返ってきて、やたら風邪をひいたりしていました。

自分がそんなんでも、幸運にも目にかけてくださる方や優しい友人はいて
懸命にアドバイスをくれたり、世話を焼いてくれるのですが
殻に籠ったままのこころでは、それらも焼け石に水のようなものです。
今思うと、何て蕪村な態度で臨んでいたのだろうと
感謝の念と共に申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまいます。

毎夜、真っ暗闇のこころのなかを歩きながら自分の生きてる意味を問う。
何のために生きるのか?答えを見つけたくて必至にもがいていました。
むしろ、それを明快に出すことが出来ないまま生きることは出来ない、
とさえ思い詰めていました。

しかし、この闇は重要な教えでありカルマでもあり、
その先に光がいずれ指すことをこのとき知っていましたから
自身を保つこころだけは折れることは決してありませんでした。


小学生のときテストで96点をとって自慢気に父親に見せたら
「100点でないと意味がない」と言われたそのときから
学校での勉強についてはずっと疑問を抱いてきました。
きっと今だったら「じゃあみんなが100点取ったらどうするの?」
って聞くことでしょう。
本当の勉強はすべてストリートのなかにあったと思っています。
すべては自分をさらけ出したときから始まる、と知りました。
芸術に答えはありません。そのときの自分すべて、
ありのままが作品となり、放たれ、世を泳ぎ渡っていきます。

進学校で廃部寸前、部員3名の美術部に入ったのは高校3年のときでした。
自己分析をすると、感覚優位で生きてきたのだなぁ、と思いますが
人生を照らす明かりのひとつはこの道にある、と
このとき既に確信していたのでしょう。
偏差値社会の闇から抜け出す道はこれしかなかった。(と当時は思った)
これが僕の人生の於いての最初の光だったように思えます。

環境が修繕されたいまだから言えますが
上京してきた頃は家族関係も決して良いとは言えず、
そのフラストレーションのエネルギーをぶつけるかの如く
毎夜のようにダンスフロアーに爆音を投下したり踊ることで自身を保っていました。
NO FUTUREまるだしでDJしていて、暗い、渋い、ドープ…そんな音ばっかで、
その影響は今も否めませんが、、とんだエゴ丸出し野郎でした。
そんな日々は結果10年近く続いたのですが、
横の繋がりで生きるという、社会ビジョンをそのなかに垣間みたことも確かです。
人と繋がれない孤独から来る自殺が社会問題となってきた時期とも被り、
この時期にそういった生き方をしていたことは「教え」以外の何者でもありません。

このように自分の過去を振り返っても、
闇のあとには必ず光がありました。
しかしそれは、か細く、何より自分自身での
「気づき」がない限りキャッチできません。
掴んだら、それを遠心力を利用するように
うまく勢いづけて、太く、大きくしていけばいい。

闇と光は表裏一体。
闇を先入観で恐れることは、何も意味がありません。
大きく深呼吸して、じっくり向き合い、それさえも
楽しみにしてしまいましょう。


最近、僕が発信したいメッセージは何なのか?
と言いますか、言いいたいことは山ほどあるのですが
うまくまとめられず、ずっとこのBLOGは放置していました。

僕という生き方は一つしかないし、それがメディアにさえなる時代。
今日はちょっと重く「闇」の話でしたが、
幸せに楽しく生きるためのコツをこれからは綴っていきたいと思います。
そのためにまず、自分が最高に人生を楽しみ謳歌することですね。

先日出会った言葉で
「笑い」は「和来」であって「和が来る」との意
というものがありました。

この魔法の波動を、言葉に置き換えて伝えるのが目標です。