デモにはもう行かない

Posted: 2012/06/26
先日の大飯原発再稼働に反対する首相官邸前のデモには
4,5000人もの方が集まったそうですね。
今日の新聞で総理は「デモの声はよく届いている」と発言したとありましたが、
言葉とは裏腹な行動は繊細になっている彼らの感情を逆撫でするだけのものでしょう。

僕個人もアタマに来ていないといったらウソになりますが
それ以上に、システムに対して中指を立て続けることの意味を問いたいです。

怒りの矛先をデモにぶつけた先には何があるでしょうか。

報道された人数が違っているとかは五十歩百歩の問題で
見てる人は当然のように見てるのが今の情報社会であると思います。
現場にいた人間よりもはるかに多いその情報の受け手が、
明日一歩踏み込んで行動するための動機とは何なのか??
怒りをデモにぶつけたい、自分に出来ることを何かしたい!
…その思考回路は間違っているとは思いませんが
一歩引いて冷静に、そこの「他を動かすものは何か」を
今は個々が改めて見つめ直すべきなんじゃないかと思うのです。
そのやり口は、各々の得意分野で表現すれば良くて
その輝きが、他の共感を得る契機になる、ということは
このことに限ったことでなく人間社会や文化の定石でもあると思います。

僕は、自然と共に在る生き方、そこから派生する衣食住にこそ
チャンスがあると思い、3ヶ月前に東京を去りました。
それは当然、東京では出来ないことであったからです。

マイノリティーの中で多くの支持を得る方法と
マジョリティーの中で多くの支持を得る方法は違うということにも気づきました。
要は、どちらに社会を変える可能性があるか、
エネルギーがあるかということなのだと思います。
僕が今まで東京で活動してきたフィールドは前者だと思いますが
そこで得た感性を生かして後者に食い込むやり口を今は模索しています。
そのヒントのひとつは農であるとも思うし、
パーマカルチャーや新しい生活デザインだとも思います。

本気で畑のなかから社会が変わっていくと思っています。
…ちょっと危ない考えと思われるかな?(笑)

みなさんはどう思いますか。


1950年代の核燃料サイクルを国策として進めると決断したときから
そのレールの上を僕らは生きているのです。
途中70年代になって、そのエネルギー政策が
緒外国に対する抑止力になることに気付き国が推進してきた事業でもある、
ということは、今は民放のNHKでさえドキュメントで放送しているのです。
エネルギーシフトを謳う人たちの認識はこの延長線上にあるのだろうか??
「エネルギーが必要」と思い純粋に研究してきた人類の知恵は
今や、空気からさえエネルギーが生み出せることにも気づいています。

では、エネルギーとは何のために必要なものなのでしょうか?
それは当然、「生活」のためですよね。
人間はより良い明日を夢見る生き物なんです。
それが社会、法、文化…全てを作ってきて今があります。
では、最低限明日ぼくが必要なエネルギーは
これだけです、って言える人はどれだけいるだろう。
そこは個人の感覚で0〜無限まで十人十色でしょう。
結局のところ、この共通意識、つまりは
「これだけあればいいよね」という規定が定まらないから
脱原発も進まないのだと思うのです。

バビロンシステムは確実にある。
けど、そこに直接的に中指立て続けるのは本当に疑問なんです。
だからもうどんなに怒り心頭でもデモに行く事はないと思います。
ロックでもパンクでも何でもいいけど、
そのアティティードは常に時代と共に
アップデートされてこそ生きるんじゃないかと思うのです。
静かに、継続的に、他利的に、生きてこそ
自分も社会も変わることができるんじゃないかと思う今日この頃です。

個々が想い、社会に対して行動する、けどその前に
冷静になって考えてみることも今必要なんじゃないでしょうか?




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