社会の中庸はどこにある?

Posted: 2012/03/16
最近は原発のこと、瓦礫処理のこと、
考えれば考えるほど混乱してきます。

と、言うのは
認識の違いは個人で大きく隔たりがあり
地方での瓦礫処理に関してだって、
僕は1%でも危険性があるなら実施すべきではないと思っていましたが
(比較の対象にはならないかもしれないけど、口蹄疫のときの完全屠殺の対応を見ると
そういう未然対策が日本政府のやり方だったと思っていたので)
リアルに復興の妨げになっていると感じている人から言えば
それは、あまりに自己中心的な発想なんじゃないの?ってことになるからです。
そりゃあ、復興して欲しいし、そこに住む人の暮らしを思うと胸が痛みます。
結局は経済やお金、人生の感じ方も、「あの日」以来細分化しつつも
端的に分離しつつある感じがしています。

あっちの人らはこういう意見だから、と一元論的に白黒言いがちだけど
グレーの人もいれば、7:3の考えの人だっているのが現状であり「社会」であるのは普遍です。
肝要なのは、自己の考えを持ち日常のなかにそれに対する姿勢を実行すると同時に
社会の中庸的意見がどこにあるかをよーく見据えておかなくてはならないことです。
現在日本の民主主義に於いては「多数」を占めるものが「社会一般」と認識されるのが現状。
そこを無視しての意見は門前払いを受ける、相手にされない、偏見の目で見られ浸透しない、
ということを、意見を言う人は十分に認識しなくてはいけないと思います。
実際に様々な職種、年代の人らと話を実際にぜず、
twitterばかりみてると頭の思考も偏ってきてしまう気がします。
現にtwitterやっていない人口の方が圧倒的に多いのですから 笑

僕は、福島や岩手の瓦礫山積みの現状を実際に見ているわけではないので
断定的なことは何も言えないと思っているのですが
実際のところはどうなのでしょう?

瓦礫は本当に地方まで持っていかないと処理しきれない量なのか?
焼却から出る放射能濃度だって、実際に測定したと言うけど
燃やした瓦礫の部位や回収した地域によって差は出るんじゃないのか?
…など、肝心要の知りたいとこはTVじゃ報道されません。


東京を離れたことによって
社会の風の感じ方も大きく変化しました。

東京にいて、ものすごい数の人の渦のなかにいると
「反原発」のネガティヴな部分のパワーばかりを受けすぎて
本当の意味での調和を考える、感じる余裕すらなくなっていました。
とにかく「怒り」や「不安」が先行する。
これは情報過多の状態であったのかもしれませんし
咀嚼する器が自分になかっただけかもしれません。

いずれにしても、最近考え方は少し変わってきました。

原発はない方がいいに決まっているけれども
様々な人の「暮らし」や「豊かさ」を考えたときに
どういったライフスタイルの提示が支持されるのか?

そこに自分が「生かされる」道のヒントがあると確信しています。
この先一年くらいで、その答えを見つけなくてはならないし
そのために、ここに今いるんだ、という気持ちで日々自分のケツを叩いています



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