万物流転

Posted: 2012/01/11
昨年後半あたりからずっと考えていたことがあって
原発に反対するにあたってデモに行ったり、
有識者や学者さんの動画や意見などを
このBLOGでも紹介させてもらってきましたが、
結局のところ、怒りにまかせて行動したり書き殴ったところで
「事実」や「検証」は伝えることが出来ても
「希望」は伝えることはできてないじゃないか、
と言うこと。

デモに行かなくなった人のなかには
「行ってもただ騒いで終わるだけ」という考えの人も少なくなく
求められているのは、実践的な対処法なんだな、
ということも自分で行動してみて改めて気づいたことでもあります。

各々の伝達・表現手段を尊重しますが
このままこういった方法で反対意見を重ねて発言し突き詰めていっても
正義か悪か、そんな二極論争にしかなっていかない気がするのです。

これは養老孟司氏のベストセラー、「バカの壁」から引用すると
「情報化社会」=「意識中心社会」=「脳化中心社会」
の現れであると言えます。

以下抜粋。


近代的個人というのは、つまりは己を情報だと規定すること。本当は常に変化=流転していて生老病死を抱えているのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。だからこそ人は「個性」を主張するのです。自分には変わらない特性がある、それは明日もあさっても変わらない。その思い込みがなくては「個性は存在する」と言えないはずです。


日々「流転」していくのが人間の素性であることは、ここ日本においては
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
と歌われているように、中世の時代に既に「人間こんなもんだよ」と、
とっくに気づいていたことでもあるのです。

つまり「個性」は「頭のなか」でなく「身体」に帰属しているのです。
いかなる思考発想も本来つなぎ止めておくことは出来ないのです。
存在がすべて正解!あなたがあなたでヨカッタ!と言うことです。

年間3万人以上の自殺者が14年以上続いている事実や、
大事故があったにも関わらず推進される原発事業、
政治に民意が反映されないのが、ここ日本の社会。

全てにおいて無責任になって良いという意味ではありませんが
同一性のないものに対し厳しい責任を求める社会やその風潮が
これらを形成しているのではないかと僕は思います。

仕事に追われ、上司の叱責に怯え、
そのストレスから来る暴飲暴食、
気づかぬうちにもたらされる倦怠感、
はたまた無関心、思考停止状態、
数ある選択肢のなかから自分の人生が
どんなものであるか夢想し、
その意味を問う時間。

豊かさを問う前に、あまりに失っているものが多い気がします…。


こんな時代をどう生きるか、
年明けと共に考え直した人も多いようで
知人のあいだでも既にアクションがあったりしています。

僕も昨年後半からずっと考えていたことに
ようやく光が見えてきました。
と言うのは具体的に、この汚染された大地とともに
今自分がどう生きるべきか発見できたのであります。
徹底的に放射能とも向き合って生きてやる!
そんな意気込みです。

今年は趣味「生活を考えること」
これでOKだと確信しています。

そこから派生する枝葉のなかに
日々の楽しみという果実を実らせてゆけば良いのです。
音楽も然り、です。
「生活」無くして音楽を楽しむ環境なんてつくれません。
また、それを考えることが仲間を助ける道に繫がるんじゃないか
とも思っています。
僕にしかできないことはDJ以外にも山ほどあります。
先の話に戻ると、僕が「生きている」こと自体が
「個性」でもあるのですから。


全ては行動で、自分の手で触れ、足で動き、感じること。
「知っている」を「わかる」状態にまで持っていくこと。

これがまず一つ今年のテーマです。




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