HA=DO

Posted: 2011/09/08
先日も書いた通り、最近「気」についてばかり考えている。

食するものすべてが自分を作るのであれば、
その摂取したものの集合体が自分であるとも言える。

動植物が、生きようとする力、それを我々人間は頂いて日々生きている。
それは例え小さなものであっても、「生」という大きな波動を内包している。
波動は伝播し、自分自身から、それは時に言葉で、ときに行動で開示される。
見えない食物連鎖とでも言うべきその行程、これは感じ、イメージするしかない。
放射能然り、あの日以降、見えないものを信じられるかが問われているのだと思う。

今年の夏は、雄大な日本の山々にいくつも出会うことが出来た。
体感したことがある方も多いかもしれないが、大自然の中にいると何故か体が軽く感じる。
何度も大きな波動に包まれている感覚を覚えた。
神がいるとすれば間違いなくここだと思った。
古来、日本人が信仰し、山/川/海などに対し、
畏敬を持ってその傍で生活をしたのも納得できる。

そして最初の話に戻るが、
すべては波動で自分の中にフィードバックされ同一化するのである。
すなわち、すべては繋がり、神は自分自身の中にいるということだ。


今、僕は東京に住んでいる。
それは仲間がいるから。
恩に報いなけらばならないから。
理由はそれだけのような気がする…。
音楽をやるためかと問われたら違うと思う。
波動の録音物として作品が残るなら、
間違いなく大きな波動を感じる場所で作りたい、というのが最近の願いである。

かつては湧水スポットとしての知られた近所の善福寺公園の水が
最近ヘドロや油膜っぽいものが浮いて汚れている。正直悲しい。
東京にも奥多摩など、まだまだ素晴らしい自然は残ってはいるが
23区内において「波動」を感じる場所は少ないと思う。
山から帰ってくると特にそういったことは敏感に感じられた。

刺激を求めていた時代は終わったし(個人的に)
実際それは虚構に過ぎなかったのかな、とも10年住んでみて思う。

犬式が「自由の刑に処される」と唄っていたのをいつも想う。
この状況を選択し、享受しているのは他ならぬ自分自身である。

生を受けたその瞬間から、本来自由、我々には生きる本能しかないはずなのだ。
僕が芸術と言うにはまだまだ程遠いかもしれないけど、制作を続ける理由は
そこにこの自由を感じることが出来るのと、国も人種もすべてを超えた共生の理想郷があるからだ。
芸術には現実を凌駕する力があると信じている。これは普遍的であるとも言える。

まさにジョンレノンの言う想像してごらん、であって、
この人間にとって一番大事と思われる能力、これを失ってはいけない。
TVや一部の情報に惑わされてはいけない。一方通行なやりとりはいらない。

重要なのは「気」の交流である。

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